今、カナダはケベック州、モントリオールにいる。ここでジャズのライブに行きたいと前から思っていた。モントリオールは夏のジャズフェスティバル開催地としても有名な場所だからだ。そんな希望を抱きつつ、ふらり立ち寄った音楽の店で広告を見たら、面白そうな演奏があった。Susheela Ramanという女性ボーカルのライブだ。

 「インド音楽ベースのジャズ」という広告の触れ込みから、どうやらフォークでムーディーなエレクトリックジャズなのかな、と漠然と考えていた。確かに、エレクトリックジャズだったし、確かに、ムーディーなのだけど、想像以上だった。彼女は序盤から飛ばしに飛ばしていた。エレクトリックギターとタムタムの音が静かに始まったと思ったら、突然ボーカリストが大股で歩いてくる。そして一声目はグルービーにライブハウス全体に響き渡った。その音を楽しもうとしつつ、鬼気迫るまでの彼女の表情、そしてジェスチャーにしばし唖然としてしまった。彼女は、手をぐるぐるとまわし、それからパーマで大きく膨らんだ髪に指をからませる。目や口は最大限に開閉される。リズムをとるために踊るのだが、身体全体の筋肉を使って動きすぎるせいか、どことなくぎこちない。視覚に強烈なそのパフォーマンスに目が慣れたところで、やっと音楽の美しさを味わうことができた。

 エレクトリックギターの人的な音に、野性的なリズムを刻むアフリカのタムタム(ドラム)が重なり合う。無機的なのにみなぎる。また、メロディーを歌うボーカルの声は西洋的であり東洋的だ。音は不思議にも互いを協調し合い、融合していく。そこには、文化や性や国のボーダーはこれっぽっちも感じられなく、けれどもそれぞれの要素が消えることなく存在している。

 それはとてもユニークな体験だった。もちろん、演奏自体が素晴らしかったのもあるし、それ以上に、一番の収穫は、今回のライブで今まで感じていたもやもやを取り除けたのだ。

 音楽はユニバーサルなものだが、一般的に「発信側」も「受信側」もある一定の場所に定まっている場合が大半だ。例えば、「エミネム」はアメリカ合衆国から音楽を発信する。すると、アメリカ国内はもちろん、ウズベキスタンの人々までこの音楽を受信して楽しむようになる。この際に考慮すべきは、音楽がこちらからあちらに送られる時に、発信側の「メッセージ」が受信側に100パーセント届いているかということだ。「エミネム」をアメリカ人は何らかの意味を持って評価するし、ウズベキスタンの若者は、また違う理由で価値づける可能性もある。まあ、ある一定の文化を基本に音楽を作られるのは当然だから、これが悪いわけではない。その音楽を聴く時点で、人はその文化に何らかの共感をしているはずだ。もしくは、音楽を聴くことでその文化に自分を染めていくかもしれない。

 このような中、上で述べたもやもやというのは、「ワールド」と呼ばれる音楽ジャンルにある。世界各地の音楽CDを集めたセクションは「ワールド」と呼ばれる。私はこのセクションの音楽が好きだ。ポルトガルのファドや、インドの民謡など、そのセレクションは多岐に渡って楽しい。けれど、たまに心配になるのだ。音楽の聴き方、理解の仕方はその人自身とは言ってみても、やはりその歌の真意が分かりにくかったりする。メジャーな文化圏外だと特に、このミステリアスな部分ばかりが目立ってしまう。どこかギャップを感じざるを得ない。なぜなら、「ワールド」と呼ばれる音楽は、基本的に「エミネム」の場合のように、ある一定文化の「発信者」が自分たちで音楽を作っているに過ぎない。発信者たち自身が、「発信する相手」に自分を想定していない場合も多い。こうなると、理解は限りなく難しくなる。では、異文化を超えて、「音楽はユニバースになりうるか?」という疑問を常に抱えていたのだが、その答えが今回のライブだった。

 まず、「発信側」、つまりミュージシャン達は、世界のトラベラー達だ。まず、ボーカルのSusheela Ramanは、南インド出身の両親を持ち、ロンドンで生まれた後、オーストラリアに移民し、その後、両親の出身国、インドで音楽の勉強をし、再びロンドンに戻る、というなかなかの経歴な持ち主だ。また、ドラムはアフリカ出身(国の名前は紹介されていない)でフランスに住んでいる。

 そして、「受信側」、すなわち聴き手は、その大多数が「カナダ人」ということになるが、この「カナダ人」は国籍が一つでもそのルーツを辿れば実に多様で、どういう時期であれ「移民」としてこの地にやって来た人たちだ。特に、北米の中でもケベックはアングロフォン(英語を話す人)とフランコフォン(フランス語を話す人)という完全なるバイリンガル社会だ。これはあくまでも印象の域を超えないが、その上に色々な文化的バックグラウンドを持つ人々が共存し易そうに見えた。私自身が、アメリカ合衆国ミシガン州郊外に住んでいたので、ケベック以外の北米との比較をしてみれば、モントリオールの人々は、固有文化を大事にしたパフォーマンスを積極的に受け入れていける。それを証拠に、聴き手の顔を眺めてみれば、金髪にヒップハングのジーンズをはいて彼氏と仲良く、ライブに来ている女の子、ちょっと気難しそうなひげの男性、身なりをきちんとした老女、フランス語を話す大人のグループ、アジア人の女の子といった感じだ。彼らは、必ずしも「ミュージックファナティック」である必要はない。モントリオールの街角でどこでも見られる「普通の人々」がこうした、ひょっとしたら「不思議」で「ユニーク」かもしれない音楽を聴きに来ている。それはまるで当たり前のことなのだ。

 つまり、「ワールド」と呼ばれる音楽ジャンルが存在するならば、それはあくまで一つの指標でしかない。それが、全く違う文化圏にいる「あなた」のために作られたものか否かによって、その音楽の理解も随分と異なる。なぜならば、上のSusheela Ramanであれば、少なくともずっと南インドにいる音楽家よりは聴き手の耳を意識しているはずだからだ。そして、この音楽を最大限に理解するのは、それは聴き手自身だ。それが「風変わりで聴きにくい」と思うか「独創的で素敵な」ものと思うかはその人の許容量によるし、Susheela Ramanのようなトラベラーの音楽であると、やはりトラベラー同士の理解は深くなりやすい。だからこそ、トラベラーたちの国、カナダ、そしてモントリオールで、彼女はとても受け入れられたのではないか。そして、そんな聴き手たちの中に身を置くと、これがまた居心地よかった。

 今まで、遠く感じていた「ワールド」は、実際に遠いものである場合が多い。しかし、自分のバックグラウンドと通じるものを感じるとき、その音楽はとてつもなく身近なものになる。そして、より重要なことに、この気持ちを一人でなく大勢で体感した時、その音楽はただの音以上の意味を持って、人々の心を一つにしてしまう気持ちいい魔法にもなり得る。モントリオールの一つの大きなライブ空間は、ミュージシャンと聴き手の気持ちの共有の中、不思議と人々をつないでくれた。

【三木はる香】