始めたのが5月だから、まだ本当に間もないのだが、茶道を習っている。「お茶」なんて、私とは縁のない遠い世界のできごとだと思っていた。だから、一足先に近所の「お茶」の教室に通っていた母がいくら一緒に行こうと勧めても、最初の頃はそれこそ鼻も引っかけなかった。それなのに今では、週に1回「お茶」に行く時間が私のなかでとても大切なものになっている。「お茶」は楽しくて、行くたびにこころが洗われる気がする。

 「お茶」を始めるきっかけになったのは、1冊の本であった。森下典子さんの『日日是好日(にちにちこれこうじつ)』(飛鳥新社)である。作者の森下さんは、「お茶」を始めてかれこれ25年という方なのだが、仲のいいいとこと「お茶」を始めたのは二十歳の春、本当にたまたまのことであった。そして、それ以来森下さんは段々と人生のステップを上がりながら、楽しいことも辛いことも、常に「お茶」とともに乗り越えていく。「お茶」を通して気づかされる生きる上で大切なことの数々。その本は、「お茶」なんて、と思っていた私に深い感動を与えた。そして私も、かつての森下さんと同じように、二十歳の春に小学校以来の親友と共に「お茶」の教室に通い始めたのである。

 私が「お茶」に行くときに1番大切にしたいと思っているのは、その場で触れるものすべてを全身で味わうということである。自分がお点前をするときは自分の手足の動きに、人がお点前をするときはその人の仕草に、抹茶と和菓子が出されたらその外見と味と香りに、最大限集中する。あと、今日のお花はなんだろう、掛け軸はなどなど。このときには、私には「お茶」以外のなにものも存在しない。やらなければならないレポートのこととか、将来に関する悩みとか、日常生活でとらわれている雑多な感情とすべておさらばするのだ。そうしたことを忘れて、目の前のことだけに集中することで、「お茶」が終わったあとは1枚のフィルターが取り払われたかのように、すっきりとするのである。

 「お茶」のおかげで、すっかり抹茶と和菓子にはまってしまった私がいる。もともと、苦い抹茶と甘い和菓子の取り合わせは好きだったのだが、目の前で点てられる抹茶と毎週先生が用意してくれる季節感にあふれた和菓子は格別である。6月に入って、この前はあじさいがモチーフのお菓子だった。白あんが入った饅頭生地の周りに黄緑とピンクの色がほんのりつけられ、その色味を淡くぼかして上から透明の四角く切ったゼリーがあじさいの花のようにくっつけてあるのだ。見ているだけでも楽しいし、それを切りとって口に入れる瞬間は、まさに至福のひとときである。

 「お茶」というと、作法がとても厳しいというイメージがある。確かに、驚くほど細かなさまざまな決まりがある。例えば、畳は何歩で歩くとか、茶碗や茶杓の置く位置とか、挨拶のタイミングとか。本当に細かく、何から何まで決められているのだが、不思議と窮屈で縛られているという感じはあまりしない。むしろ、決められた中で、少しでも美しく流れを作ろうと、一生懸命である。ふと気がつくと、「お茶」よりも日常の方が、よく分からない決まりに拘束されている感じがする。たとえば、有名企業に入るためのマニュアル化されたテクニック。スキルを磨くことが時に必要だとしても、あまり楽しくないやなんて思ってしまう。こうして見るとどんな世界にも決まりごとはあるのだが、その中でも形は決まりに従っていても、肝心の本質が自由かそうでないかの違いが大きいのだと思う。「お茶」では、細かい決まりに従いながらも、普段気づかないようなことに気づかせることでもっと広い世界を垣間見せてくれるから、そこでありのままの自分を受けとめてくれるから、そこには圧倒的に自由なこころの世界があると思う。

 さて、「お茶」を始めて2ヶ月にも満たない正真正銘未熟者の私が、偉そうにいろいろと書いてしまった。「お茶」の世界は奥が深くて、それこそ何十年も続けてようやく「お茶」世界の境地(あるとしたら)に辿りつけるのか否か、という感じなのだと思う。それでも、週1回のお稽古で少しずつ自分の中に「お茶」の知識が増えていくのがうれしくて仕方がない。「お茶」は季節を重ねるごとに、年を経るほどに、深みが増していくものだと思うから、できる限り長く続けていきたいと考えている。「お茶」の先輩に言われた、「『お茶』に出会えて本当によかったですね」という言葉を今改めてかみしめる。

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【白土翔子】