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斜め45°に眺めるコラム
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7月30日(火)のコラム
二流いかに生きるべきかC ―北条氏政B
北条氏政が秀吉を前にし、その状況判断を誤り交戦の道を選んだことで、彼は暗愚、凡人、二流などといったレッテルを貼られているのは、前回までに記したとおりである。あるいは、なぜ北条氏政が交戦の道を選んだのか、それについて一般的に考えられている説も前回記した。
何故、氏政は強硬に秀吉との交戦を選んだのか。今回は自分なりに整理した考えを書いてみたい。もっとも、以下はむしろ勝手な想像というべきものであり、根拠を示せと言われても窮してしまう類である。ただ、こうも考えられないだろうか、程度に読まれたい。
氏政にとって、父・氏康という存在は絶対であったのではないか。つまり、完璧な存在として、氏政は心服し、崇拝に近い感覚をもっていなのではないかということである。現に、氏康が「武田と同盟を結びなおせ」と遺言をのこすや、氏政がすぐにその通り武田と同盟を結びなおしている。
故に氏康が生前に採った戦略は完璧なものと考え、氏政はそれに盲従したのではないか。父・氏康の戦略を客観的に、あるいは批判的に分析することもせず、ある意味「聖典」として見ていたのではないか。故に、かつて氏康が上杉謙信の侵攻に対し小田原城に篭りきることで防いだというその戦略に盲従し、氏政は秀吉の侵攻に対し小田原城に篭ることで防げると考えたのであろう。
しかしながら、謙信が侵攻してきたときと秀吉が侵攻して来た時とでは状況が明らかに違うわけであり、小田原城にこもるという戦略はこの場合、通用しないのである。しかし、それでもあえて篭城したのは氏政の氏康に対する絶対的な心服によるものであろう。
もし、氏政が氏康よりも格上の人間に接していたり、あるいは氏康の欠点を見出せていたら、氏康という存在を相対化できたし、氏康の戦略を客観的に、あるいは批判的に分析し、その欠点や限界というものに気付けたであろう。しかしながら、氏康はあまりに完璧な男であった。どの史料も、氏康を絶賛している。これほど賞されている武将は珍しいほどである。故に、氏政は氏康をついに相対視できず、心酔してしまったのである。
これは、山内一豊が秀吉という超一流の人間を前にして、それに心服せず相対しできたのとは対称的であるが、一豊については次回。
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