SKの出鱈目哲学
SKが自分の世界を気ままに語るコラム。
 


 昨年度まで、一橋新聞部のホームページ上でコラム「SKの社会を語る」を連載していた開発です。故あって大学にもう1年残ることになったため、今年も学生をしております。まだ学生生活も9ヶ月ほど残されており、今回コラムの連載を再開することになりました。ということで、第一回はまずコラム連載を再開するに至った経緯を紹介したいと思います。



 一言で言うと、コラム連載のきっかけは「暇」だったからである。もう少し凝った言い方をすると、「暇な時間に耐えられなくなった」ということだ。

 私は大学では新聞部以外にも多くのサークル活動に所属して活動してきた。当然の如く忙しくなったわけだが、元々いろいろな人に出会っていろいろな経験をするのが好きだったため、さほど苦痛は感じなかった(もちろん兼部ということからくる活動調整は辛かったが)。自分の中では、多くのことが経験できた昨年までの4年間は十分満足いくべきものだった。

 とは言っても多くのことに手を出しすぎたのは事実であり、(自業自得といえばそれまでだが)自分自身の生活が大きく規制されたという思いはあった。私は昨年の夏学期の時点で留年するつもりでいたので、5年目は何の制限もない自由な生活を送るつもりでいた。その背景にはこれまでの大学生活を振り返って、与えられたことを機械的にこなすだけで、いつの間にか自分からは何もしなくなっていた自分への苛立ちがあった。そのため5年目はこれまでと違って、自分でやるべきことを考えて自己決定ができる人間になろうと決めていた。

 ただ4月以降の自分自身を振り返ってみると、自己決定して有意義な生活を送っているとはとても言えない。それどころか毎日暇を持て余しているばかりで何もしていないのが現状である。今日は何をしようかと悩み、そのままたいしたこともせずに一日を終える毎日が続く。そんな自分に苛立って何かをしようと考えるものの、結局何もできずに苛立ちばかりが募ってゆく。あらゆる規制から逃れて自由に希望を抱いた生活だったはずだったが、実際のところ自由というものが苦痛になってきた。

 しかし最近「自由」という言葉の語源を知るにあたって、自分自身自由という本当の意味を理解していなかったことが分かった。自由という言葉は英語ではフリーダムまたはリバティというが、これは日本語の自由とは違うということだ。自由とは西周が訳した言葉だが、これは読んで字の如く、自らに由(ワケ)があるということであり、自分自身に何らかの根拠があるということである。元は「拘束からの自由」という消極的な自由の意味であるフリーダムやリバティと違い、日本語の自由は「理想に向けての自由」といった積極的な意味である。(1)

 だとすれば、これまで私が考えてきた自由とはフリーダムやリバティといった消極的なものに留まっていたと考えられる。しかしそれでは由(ワケ)がないため、拘束から解放された後に何をしていいか分からなくなってしまう。自由な環境に苦痛を抱いていたのは、とどのつまり由(ワケ)がなかったからだったのだ。

 それなら何をやりたいのかを明らかにすればよいだろう。しかし問題は何かを行うといった意識はどこから生まれてくるのかといった点である。自分自身に何らかの根拠がなければ由(ワケ)は出てこない。その根拠は果たしてどうやって生み出せばよいのだろうか。

 この問題の解決を解く鍵は経済学者F・A・ハイエクの思想にあった。ハイエクは自由を擁護するためにデモクラシー(民主主義)を批判したが、それは自由とは慣習・伝統といった社会の過去の経験の積み重ねによって生み出されたルールに基づいたものであり、個人がやりたいことをやれるといった無制限の自由―放縦―では本来の意味での自由の条件を崩してしまうと主張した。(2)

 ハイエクの主張に従うと、自由は何らかのルールに規定されて始めて意味を持ち、そのルールは慣習や伝統の積み重ねという社会の基盤によって生み出されたものということになる。つまり自由の根底には社会基盤による制限があり、これが根拠となって自らへの由(ワケ)になるのだ。

 これを個人レベルに還元すると、個人が自由に振舞うためには社会による制限が必要だということになる。しかし現実問題として現代社会は多種多様であり、その中で拠り所となる基盤を見つけるのは難しい。とすれば、社会を構成する要素である組織という基盤を有して自らを規制の網に絡め、それを自身の根拠としていけば良いのである。

 ただ注意しなければならないのは、規制も程度が過ぎると拘束になるという点だ。規制に囚われるあまり由(ワケ)を忘れてしまうと、拘束されたという意識ばかりが先に立って意識が拘束からの解放に囚われてしまう。これではフリーダムもしくはリバティを求めるだけの消極的な精神状態になってしまう。だからこそ、自由と規制の間のバランスを保ち、放縦状態にも拘束にも陥らない精神力、つまり由(ワケ)を持ち続けることが必要となってくるわけだ。そうやってはじめて自己決定といったものが可能になり、自分自身心から充実したと感じられる豊かな生活を過ごすことができるようになるのだろう。



 ということで、私は毎週のコラム執筆活動を再開することによって自分自身に規制を課して自らの根拠としていこうと決意しました。前回コラムを連載していた時は日々の締め切りに追われて由(ワケ)を喪失していた感がありましたが、今回は規制が拘束とならないように由(ワケ)を保ち続けていきたいと考えています。

 それでは、今後もよろしくお願いします。

 参考文献
 (1)「獅子たりえぬ超大国」西部邁著(日本実業出版社) P110〜111参照
 (2)「現代経済学の巨人たち」日本経済新聞社編(日本経済新聞社) P42〜43参照

【開発俊輔】