SKの出鱈目哲学
SKが自分の世界を気ままに語るコラム。
 


 今夏に向けて懸念されていた首都圏の電力不足であるが、どうにか回避される模様である。昨年の東京電力の不祥事によって運転を停止していた原子力発電所17基のうち4基が活動を再開したからである。

 言うまでもなく電力は現代文明の根幹を担うインフラの一つであり、電力なしの生活は想像できないほど我々の生活に根差したものであり、電力が不足しては生活に支障が出ること必至である。都心に住んでいる者としては、とりあえずは電力不足危機を回避できたことを喜びたい。 

 しかし浮かれているだけではいけない。今回の電力不足騒動を通じて電力が供給されていることが当たり前という都会人の認識は崩れ去り、都会人も電力について真剣に考えなければいけないという厳然たる事実を突きつけられたからである。

 原発は人間の少ないところに建設するのが基本とされている。原発は原子力というエネルギーを使っているため、万が一大事故が発生した場合周囲への被害は計り知れないものとなる。だから発生する可能性の高いリスクの大きさを考えると、原発は地方に建設すべきだというのだ。

 この理屈は正しい。確かに原発の抱えるリスクを考えると、人間の多い場所(都会)に原発を作るのは非常に危険である。しかし人間の少ない場所(地方)の人間にとっても、原発の抱えるリスクは都会の人間と全く同じである。違うのはリスクが発生した際にリスクを被る人間の数であり、リスクの程度そのものではない。

 どうしたらよいのかと考えると、やはりリスクを被る人間の数で決めるしかない。多数の人間と少数の人間のどちらを優先するかと考えた場合、人間の価値が基本的に等しいと考えると(そんなわけはないが)、(少数の人間が社会的に価値の高い人間であるという例外を除いて)よほどのことがない限り多数の人間を選ぶだろう。少数の意見も重視するにはするが、最終的に多数を優先せざるを得ない。

 それでは原発そのものをなくしてしまおうという意見が出てくるが、これは確実に不可能である。本当は原発そのものを使わないにこしたことはないのだが、資源小国である日本にとって原発は必要不可欠である。感情的に原発反対を唱えてもそれは所詮机上の空論に過ぎない。かと言って省エネを過剰に唱えて電気のない生活を送ろうと強がっても、一回使用されたものを早々簡単になくせるわけがないのだがらこれも机上の空論である。結局のところ原発は使用せざるをえないのであり、リスクを負う人間の少ない地方に作るのが正しいのだ。

 このように原発を地方に作ることそのものには問題はない。問題は都会人が原発によって豊かな生活を享受している間に、それが自明のものだと思って地方の人が被る可能性のあるリスクのことを考えなくなっている点である。

 原発稼動は決して自明のことではない。日本全体の発展のためという公の精神のもと、地方人があえてリスクを引き受けていることの結果である。そしてそこには原発を使用する側がリスクを起こさないように最大限に努力するという前提がなければならない。そうでなければ、自分たちにとってトータルとしてマイナスである原発なぞ許すわけがない。都市と地方の相互における信頼関係があってはじめて原発は稼動するのである。

 その信頼関係を都市が傷付けたため、今回地方が原発稼動を停止したのである。都会人にとっては大変困ることであるが、それはあくまで都会の都合である。原発をきちんと管理して地方の安全を守るという義務を怠った都会が電力不足という不利益を被るのは当然のことなのだ。

 幸いにも、地方の原発4基が活動を再開したために電力不足は回避された。しかし今回の件から、都会の人間は自分たちが当たり前のように使っている電力は地方によって支えられているという事実をしっかり認識しなければならない。その上で都会人は地方の原発の安全性を保たなくてはならない。もしそれができないのならば、都会に原発を建設するしかなくなるだろう。

【開発俊輔】