SKの出鱈目哲学
|
![]() |
|
屁理屈という言葉がある。筋道が立たない、もしくは道理の通らない文字通り「屁」のような理屈のことである。 世の中が不条理に満ちている中において、正しい道理を立てたり筋道を通すために理屈というものがあるはずである。しかし実際にはそのような理屈は少なく、不条理を助長するような屁理屈が幅をきかせている。 例えば北朝鮮の拉致問題について、「確かに北朝鮮は日本人を拉致したが、日本人も戦争中に朝鮮人を強制連行したのだから拉致について云々いうべきではない」とか、「現時点ではイラクで大量破壊兵器が発見されたわけではないが、イラクにフセイン大統領がいなかったとは言えないように大量破壊兵器が存在しなかったとは言えない」といった信じられない屁理屈がまかり通っている。こういった現状を見ると、屁理屈によって不条理が助長されているというよりは、こういった屁理屈が世の中の不条理を増大させているといったほうが正しいであろう。 それでは屁理屈とはどういうものなのか。「屁」がついているとはいえ、理屈であることには違いはない。理屈がどういう場合に屁理屈になるのだろうか。理屈と屁理屈の違いを考えてみたい。 その前に一つ。理屈とは筋の通った考えや道理という意味であるが、それと同時に無理やりこじつけた理由や論理という否定的な意味でも使用される。否定的なニュアンスの場合、屁理屈と同意になってしまう。そこでここでは屁理屈に対応する概念としては理論―物事の道理や筋道を論じること、またはその議論―としたい。 理論とは世の中の普遍的な法則を表すものとされている。しかし理論はすべてに先んじて存在するものではない。ある仮説があってそれが検証されて認められたものが理論となっている。しかし仮説を生み出すのは個人であり、仮説の根拠となるのはその個人の体験である。そのため理論はあくまで仮説の延長上にあるものであり、仮説そのものが成立しない場合は理論そのものが成立しないということになってしまう。理論が理論として相手に受け入れられるには、仮説―もっと言うと仮説の背景にある体験―が相手に受け入れられていなければならない。 つまり理論とは自分と相手との間に体験から成る何らかの共通基盤があってはじめて成立するものであり、共通基盤がなければ成立しないものとなる。ただ共通基盤がなくとも、話の筋、流れそのものは通っている場合がある。こういった理屈はいくら筋が通っていようとも決して受け入れられないものである。 このような筋は通っていても受け入れられない理論、これが屁理屈ではないだろうか。こちらは真っ当な話をしているつもりであっても、相手がその話を理解できる土壌がなければ屁理屈になってしまうのである。ありがたい念仏でも馬からすればどうでもいい話になってしまうのと同じだ。一方が相手の話を屁理屈だと感じた時点で、議論はもう終了なのだ。 そう考えると、「話せば分かる」という学校で教わる通説そのものが疑わしくなってくるだろう。いくら話し合ったとしても、互いの思考背景に共通基盤がなければ屁理屈の応酬に終わってしまう。現に犬養毅は青年将校と共通基盤がなかったから撃たれたのだし。 相手との共通基盤がなければ話し合っても無駄だというのならば方法は2つある。どうにかして自分と相手の間に共通基盤を作り上げるか、話し合っても無駄だとあきらめるかである。ただ共通基盤を作るには、それに応じたコミュニケーションが必要である。事情によってコミュニケーションが十分にとれないと言うのならば、話し合っても分かり合えることはない。とりあえずは「話し合っても分からないものは分からない」という私なりの結論を提示したいと思う。 【開発俊輔】 | |