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立川駅で多摩モノレールに乗り換えておよそ10分。玉川上水駅の西に位置するのが、国立(くにたち)音楽大学だ。
「国音(くにおん)」と略されることも多いが、公式には「くにたち」が通称として使われている。
その歴史は意外に古く、再来年には創立80周年を迎える由緒ある大学である。
かつては国立に位置していたことはその名前からも明らかであるが、それ以外の史実を知る人はそれほど多くはない。
知られざる「くにたち」の過去―― 国立音楽大学80年の歴史をひも解いた。
東京高等音楽学院(国立音楽大学の前身)の創立は、1926(大正15)年までさかのぼる。
当時の国立(谷保村)はまだ草深い武蔵野の原野だったが、箱根土地会社の社長の堤康次郎が中心になって「国立大学町」計画が進行していた。
東京商科大学(現一橋大)の国立への移転が取り付けられ、道路整備や中央線の新駅開設などが計画されていた。
音楽学院は当初、代田橋(世田谷区)あたりを候補地にしていたとも言われているが、堤はそんな音楽学院にも積極的な誘致を行った。
そしてその誘致の大きな武器となったのが、「音楽村」構想だった。
 1926年頃の国立に立つ創立者たち=国立音楽大学提供
「芸術による魂の浄化」を合言葉にしたこの構想は、音楽学院を中心として国立に音楽家や音楽愛好者を集団で住まわせるというもの。
そうすることで、騒音被害を気にせずに音楽を心ゆくまで堪能できる、と堤は口説いた。
音楽村ができれば学校にも安定した入学者が望めるなど、便益も大きいと考えた音楽学院側は誘致を承諾。
「音楽村」構想は実現へ動き始めることとなった。
約4万坪の土地が音楽関係者を対象に売り出され、「音楽村」の実行委員には作曲家の山田耕作らのビッグネームも名を連ねた。
新聞に取り上げられるなど世間の注目も集め、この奇抜な構想が実現を見る日も近いと思われていた。
しかし、時代は無情だった。
大正デモクラシー期の好景気はすでに終焉を迎えていて、音楽を楽しむためにわざわざ田舎の土地を買おうなどと考える人は、そう多くは現れなかったのである。
分譲地は大量に売れ残り、音楽学院は1学期を新宿の仮校舎で送った後、“独りぼっち”で国立の生活をスタートすることになった。
商大の国立移転は音楽学院よりも早く決まっていたが、一部の教官や学生の反対運動もあって移転実施には手間取っていた。
結果的には音楽学院の後を追う形で、1927(昭和2)年と1930(昭和5)年の2度に分けて移転が実施された。
国立における“先輩”であり、商大を迎える立場となった音楽学院は、商大のために移転歓迎演奏会を開いた。
1927年には音楽学院の講堂で、1930年には商大に出来たばかりの兼松講堂で、それぞれ実施されたという記録が残っている。
必ずしも移転に肯定的でなかった商大生に、国立で聴いた音楽の調べは、少なからずやる気を奮い立たせたのではないだろうか。
その後も“近所”同士として、特に音楽を通じ音楽学院と商大の付き合いは続いた。
それぞれの学生組織による交換演奏会などが頻繁に開催されていたほか、音楽学院の外国語などの授業を、商大の教官が教えに行っていたこともあったという。
さまざまな面で、両者は国立の地で“交際”を続けていった。あの戦争が起こるまでは・・・・・・。
日中戦争の激化に伴い、1938(昭和13)年には国家総動員法が公布されるなど、徐々に社会は戦時体制に移行していった。
ところが戦時当初の音楽学院は、軍事工場を慰問して演奏会を行う程度で、社会全体に比べればまだまだ平穏であったと言える。
授業やレッスンもほとんど滞りなく行われ、生徒たちの表情からも戦時下の緊迫したムードが読み取られることはなかったという。
しかし、日米開戦2年後の1943(昭和18)年頃からは、ついに音楽学院にも戦争の余波が顕著に押し寄せるようになった。
男性教員や男子学生(音楽学院は「各種学校」なので徴兵猶予がなかった)には召集令状が届き、次々と戦地に飛ばされていく。
中には戦死する者も出て、音楽学院では慰霊祭が行われるという事態になった。
そして音楽学院自体も、軍からの要請を受けて「学校工場」として動き出すことになる。
校舎の一部が、工場になってしまったのだ。
 「学校工場」を報じる朝日新聞記事(昭和18年10月25日)
それでも、音楽学院から音楽が消えることはなかった。
「学校工場」では生徒が一日おきに働くシステムを採用することにより、生徒は半数ずつ1日おきではあるが、授業やレッスンを受けることが出来た。
また、工場内でも作業中の生徒のために、レコードが流されることもあったという。
生産力の低下が顕著になると、生徒たちは「学校工場」から、立川にある工場への勤務に変更させられた。
ここで生徒たちは3交替で作業するように編成され、より過酷な労働に従事させられることになる。
深夜の作業では、眠らないために飲まされた薬剤の発作で体調を崩す者や、疲労と睡眠不足から伝染病に感染する者も出た。
さらには昼間に工場が空襲を受けたこともあったという。
しかし、こんな極限状態の中でも、生徒たちは決して音楽を手放さなかった。
声楽科の生徒たちは、ひどい声荒れに悩まされながらも、3交替の合間をぬってはレッスンを続けていた。
結局立川の工場は再度の空襲で焼失し、生徒たちは再び「学校工場」に戻されることになった。
そして戦況はさらに悪化する。
1945年には“決戦措置”として学校の授業は停止され、本土防衛への学徒総動員が決定された。
ところが、音楽学院は早くから「学校工場」を設置していたために、徴用を命じられることもなく、レッスンは終戦まで途絶えることがなかった。
学院側の賢明な判断と、そして何よりも生徒たちの音楽を愛する心が、国立に音楽の火を灯し続けたのだった。
――実はもう一つ、戦時中のエピソードがある。
1944年、夏。前年から理系以外の学生に対する徴兵猶予は停止され、多くの若者が戦地に送られていた。
東京帝国大学(現東大)法学部では、また新たに学生を送り出すにあたり、日本交響楽団(現NHK交響楽団)を招いての壮行会を開くことを計画した。
演奏曲目は、「第九」。
娯楽と言えばクラシック音楽ぐらいしか残されていなかった時代にあって、「第九」の人気は絶大だった。
そしてその“核”とも言える合唱に、音楽学院の生徒が呼ばれたのだった。
合唱といっても、そう易々とできるものではない。
生徒たちは慢性的な栄養不足であり、暑さの中では体力も続かない。
まして「第九」は体力の消耗が激しいので、演奏中に倒れてしまう恐れもある。
「『第九』は勘弁してくれ」、と一度は断わりを入れていた。
しかし、「戦争には勝てそうもない。せめて至高の名曲『第九』を聴いてから…」という出陣学徒の強い要望を受け、「第九」の演奏が了承されたのだった。
奇しくも、広島に原爆が投下されるちょうど1年前にあたる8月6日の昼下がり、壮行会は開催された。
会場となった東京帝大の25番教室は超満員な上に、入りきれない学生が教室の外に何重にも列をなしていたという。
戦場に向かう学生のために1分間の黙とうがささげられた後、法学部長の挨拶があり、そしていよいよ「第九」の演奏が巡って来た。
そこで突然、空襲警報が鳴り出す。
狼狽する教室内に、上空を飛び去るB29の騒音がこだました。
幸い、すぐに警報は鳴り止んだ。
水を打ったような静寂が訪れた後、静かに「第九」の演奏が始まった。
そして合唱。
ほぼ全員が参加した音楽学院の合唱団は、押しつぶされそうな混み様の中で、精一杯に声を張り上げた。
「これが最後の『第九』になる人もいるかもしれない…」。
歌いながら涙をこぼす女学生の姿も多く見られた。
聴く側の出陣学徒たちも、同じ気持ちだったに違いない。
演奏終了後、普通ならば拍手が起こるはずの会場内は、しばらくの間静まり返っていたという。
その沈黙こそが、彼らの全ての思いを表していたのかもしれない。
「その悲壮な雰囲気は、今でも瞳を閉じると鮮明によみがえってきます」とあるOGは語っている。
 兼松講堂でのオペレッタ上演の様子=国立音楽大学提供
終戦後まもなく学校は正常な状態に戻ったが、激しい戦後インフレの中で授業料も値上げされるなど、生徒たちの生活はまだまだ厳しかった。
食費もままならなかった生徒たちは、商大の学生組織とのジョイントコンサートを兼松講堂で開き、その収益を学校の食堂に回していたこともあったという。
このように商大とのつながりも再び盛んになっていく。
1947年秋に開催された文化祭「第1回芸術祭」において上演された戯曲「愛と死の戯れ」は、商大との合同企画となった。
演出や美術などの裏方を商大の学生が行い、音楽学院の生徒が役を演じたのだ。
音楽学院での公演で好評を博したこの戯曲は、商大でも上演され、兼松講堂は観客で一杯になったという。
そして、音楽学院自体も新たな時代を歩み始めることになる。
1947年には「国立音楽学校」に名称を変更、1950年には念願だった大学設置が認可されて「国立音楽大学」となった。
さらに戦後のベビーブームの影響から、附属校(幼・小・中・高)も次々と開校される。
必然的に大学の入学希望者も急増し、学生定員の増幅や学科の増設が次々と行われていった。
こうして一大音楽学園となった「くにたち」では次第に校舎が手狭になり、増大する学生を許容できなくなる恐れが出てきた。
さらに創立当時は原野だった国立の大学周辺も、住宅が立ち並ぶようになり、近隣住民への騒音被害も無視できない状況になっていた。
これらの現実を考えると、もはや音大に残された選択肢は、国立を離れての移転しかなくなった。
歴史に「もし」はないが、あの「音楽村」構想が実現されていたなら、音大は今でも国立の地にその姿をとどめていたかもしれない。
移転先は立川市の上水台(じょうすいだい)に決まったが、学生の間では移転反対運動も行われた。
当時は近くに米軍の立川基地(現在は返還されて大半が国営昭和記念公園になっている)があり、その騒音被害への懸念や、交通の不便さが問題とされたのだ。
しかし、大きな混乱にはならずに運動は解消され、移転は1966年に始まり78年には完了した。
ここに国立音大は、50年以上慣れ親しんだ国立に“弟分”の附属校を残し、単身立川へと移り住んだのだった。
 多摩都市モノレールの玉川上水駅名表示
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1998年、当初は西武拝島線しか通らなかった玉川上水駅に、多摩都市モノレールが開通した。
新設されたホームの駅名表示「玉川上水」の下には、カッコ付きで「国立音楽大学」の表記がある。
20年の時を経て、「くにたち」は立川の地にも確かに根を下ろしたと言えるのではないだろうか。
(荒川慧太)
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